プロデューサー / ディレクター / 脚本 / 映画監督 / 舞台演出 合津 直枝
- 1976年 テレビマンユニオン参加
- 1995年 映画「幻の光」(企画 / プロデュース):ヴェネチア映画祭金のオゼッラ賞、藤本賞
- 1998年 映画「落下する夕方」(監督/脚本/プロデュース):ベルリン映画祭出品、新藤兼人賞銀賞
- 1999年 ドキュメンタリー「1999・大島渚・映画と生きる」(撮影/演出/P):ヴェネチア映画祭上映
- 2013年 NHK連続ドラマ「書店員ミチルの身の上話」全10話(演出 / 脚本 / プロデュース)
- 2016年 舞台「乳房」「檀」(企画 / 台本 / 演出)
- 2018年 ふたり芝居「悪人」「家族熱」(企画 / 台本 / 演出)
大学卒業時は、「オイルショック」の真っ只中。<4大/地方出身女子>の就職は困難を極め、就職試験さえ受けられないような有様。(林真理子さんの初期エッセイに詳しい)わずかに受験できた出版社と放送局2つにフラれ、テレビマンユニオン試験にも落ち、アルバイトの形で参加。
最初の仕事は、「オーケストラがやって来た」のAPA(アシスタントプロデュ―サーのアシスタント)。ギャラは月7万余円。収録に際して150万円預かり、移動のチケット、お弁当の手配するのが主な仕事。萩元晴彦Pは言った。「あなたは7万円の仕事をしているのではありません。150万円の仕事をしているのです!
と。神戸での収録後の夕食に中華料理屋を予約、中継チームを率いて店に着くと、「トレビアンユニオン ローズ様ご一行」(!!!)の看板が。これは生涯のテッパンネタ。
そんな修行時代を経ても、なかなか自分の企画が採択されることがなく、やっと決まった終戦特番2時間ドラマの放送日のこと。組閣の速報がドラマ中に流れた。○○大臣△△△△ ××大臣□□□□…主演俳優のアップにもおかまいなしに延々と。自分が半年かけて仕上げたドラマが、組閣速報の下絵に成り下がってしまったことにひどく傷つく。「この時間には絶対これを見る」と能動的にかかわってくれるお客さんに向けて作品をつくろう、と決める。
「そうだ、映画をつくろう!」
原作は、宮本輝さん初期の中編「幻の光」に決めた。若くして夫に自死された未亡人の痛恨のひとり語り。宮本さんから1000円(!)で原作権を譲りうけるも、新人監督、新人女優という企画に、4年かけても資金は一円も集まらず。たまたま舞台「奇跡の人」で9000万の黒字をつくったことが幸いし、全額テレビマンユニオン出資映画となる。初試写の日、ほとんどの人が口をつぐんで会場を去っていく。「かわいそうに…こんな地味な映画つくちゃって…」と同情しきりの顔顔顔。が、ヴェネチア映画祭で3位レベルの賞を受賞して帰国すると、日本中が手のひらを返した。「スゴイ映画だと、思ってたんだ」と。
5年間ドロドロになって「幻の光」に尽くしたが、映画プロデュ―サーは、いつの間にか「透明な存在」になっていた。「成功も失敗も、自分の責任」の方が心地いい、と気づく。
映画「落下する夕方」で、脚本、演出、プロデュース、これが初演出初脚本。参加した高崎映画祭で、脳梗塞の後遺症が残る躰で映画を撮る大島渚監督の現場がはじまる―を知る。「これは記録しておかなければ!」と、毎週たったひとり深夜バスで京都に通う。器械オンチの初撮影。大島監督からは、「密着どころじゃない、接着取材だ」とあきれられる。
ずっとプロデューサーで、と思ってきたが、この映画とドキュメンタリーの経験が、自分を解放した。
「経験の無さに、気後れすることはない」
2013年、夢だった連続ドラマ(3ヶ月、見る人の歴史の一部になれる)を手がける。「書店員ミチルの身の上話」全10話の脚本、演出、プロデュースは、テレビ屋として<アガリ>かな、という思いから、今は、小規模舞台の演出に熱中、ナマの達成感は、また格別だ。
TRY & ERRORの連続。はて、これからどこに辿り着くのか…。
「自分の道は、自分で見つける」―これがテレビマンユニオンの志だと思う。
そんな仲間と新しく出会いたい。来たれ、新しい志たち!